看板の筆文字は、商店や飲食店、祭りなど、様々な場所で見ることができ、訪れる人々の目を引きます。看板の筆文字は、その店舗やイベントの特徴やコンセプトなどを反映した「顔」とも言える重要な要素になります。 長い歴史を持つ看板の筆文字について、江戸時代から現代までの変遷を記しました。
江戸時代の看板の筆文字
江戸時代、看板の筆文字は商業活動において重要な役割を果たしていました。当時の商人たちは、看板を通じて自らの店舗や商品を宣伝し、顧客を惹きつけるために工夫を凝らしていました。
しばしば書家によって書かれ、芸術性と読みやすさを兼ね備えていました。筆文字の制作には高度な技術が必要であり、文字を書く職人は高い社会的地位を有していました。
看板の筆文字は、文字の大きさ、形、色、そして筆の運び方一つ一つが、店の品格や特色を表現していました。例えば、食料品を扱う店では、新鮮さや豊かな味わいをイメージさせるような丸みを帯びた文字が使われることが多く、工芸品を扱う店では、繊細で洗練された文字が好まれました。これらの文字は、単なる情報伝達の手段を超え、店舗のブランドイメージを築く上で重要な役割を果たしていたのです。
看板の筆文字には、読みやすさと美しさを兼ね備えた「楷書体」や「行書体」が多く見られますが、江戸時代の看板はしばしば「草書体」も使われています。現代人は読めない書体です。当時の人々の書体の教養の高さがうかがえます。「草書体」もありな看板ですから、表現も多彩で個性的、曲線的な草書体特有の躍動感があり、技術も高度で、大変魅力的なものばかりです。
江戸時代の看板の筆文字は、伝統的な商店街や観光地では、今なおその魅力を感じることができます。これらの看板は、日本の伝統文化や歴史を今に伝える大切な文化遺産です。
残念ながら、現代においては当時の高度な技法やデザイン性を書家が真似ようとしても、遠く及ばないことがほとんどです。西洋文化の影響、硬筆をメインに使う習慣の影響、デジタル技術の発展に伴い手書き筆文字以外の「フォント」ばかり見る習慣の影響、などが時代が進むにつれて大きくなり、かつては持っていた筆の扱い方・操り方についての深い理解の共有と伝承が、どこかで断絶してしまったのでしょう。
明治~大正~昭和時代の看板の筆文字
明治・大正・昭和時代は、肉太で直線的な楷書と隷書が多く、奇をてらった表現よりは、均一的で真面目で力強く読みやすい看板が目立ちます。均一的とはいっても現代の「フォント」とは違い、当時の精神性と手書きならではの滲み出る個性で独特の迫力や個性がありました。明らかに現在は見られないような力強さや逞しさ、独特のバランス感覚、筆使いの巧みさなどが残っていた最後の時代だったように思います。筆を垂直に立てて書いたような筆致が多く見られます。それによって骨太な剛健さが伝わってくるのかもしれません。
現代において、明治・大正・昭和時代の看板は、レトロな魅力として再評価されています。デザインを復元したり、新しい作品に明治・大正・昭和時代の要素を取り入れたりすることは、しばしば試みられています。しかし、筆文字については、当時のような力強さ・迫力・独特の個性を、現在真似することは難しいです。技術的な原因というよりは、時代特有の精神性の違いが、真似することを困難にさせている気がします。
平成~令和時代の看板の筆文字
デジタル化が進み、速さや効率が重視され、コストをかけないで製作できる筆文字フォントの看板が大量に街角に見られる時代となりました。
手書きの筆文字の画像データを基にした看板も沢山見られますが、書き手の多くは書の修練を専門的に積んだ人物ではなく、デザイナーやイラストレーターが文字以外のデザインとセットで製作する、いわば素人筆文字です。現代にあっては、発注側も筆文字の良し悪しなど解らないことがほとんどですから、素人が筆を握って書いた筆文字でも十分満足してもらえる時代です。とりあえず筆で書かれていて、それっぽく味のあるような雰囲気で書いてあれば、発注者に納得してもらえる時代です。古き良き看板や商品パッケージの筆文字のような、骨があり、品があり、味わい深く、見応えのある筆文字は、現代の看板や商品パッケージなどでは滅多に見ることはできません。ちょっと寂しいですね。
ですから、わざわざコストをかけて書家に書き文字を依頼するケースというのは、予算に余裕のあるケース、日頃から筆文字に一定の興味があり筆文字の美を判断する能力が身についている依頼主、筆文字のクオリティーに強いこだわりを持った依頼主、作りたい看板やロゴの筆文字の仕上がりイメージを明確に持っている依頼主、筆文字の持つエネルギーや深みが書き手の技量によって大きく異なることを直感的に理解している依頼主、といったケースに限られるのだろうと思われます。
科学技術の進歩や効率化の追求がもたらした結果であり、時代の変化とともに、筆文字の文化もまた変貌を遂げているのです。
手書きの書体としてはほとんどが楷書です。丸みをつけた字形が多いのが現代の特徴のように見えます。丸みで優しい雰囲気にしたいというケースもあるでしょうし、正統派の真面目な字形は技術的に難しいからといったケースもあると思います。
あとがき
古き良き時代の看板や商品パッケージに施された筆文字は、独特の美しさと味わい深さがありました。
しかし、現代においては、そのような筆文字を目にする機会は格段に減少しました。多くの看板や商品パッケージの筆文字は、デジタル化されたフォントや素人感のある筆文字で作られており、かつてのような品格や魅力を感じることは難しくなっています。
ただ、見方を変えれば、良い筆文字であれば目立つことができる時代でもあるでしょう。
古き良き時代の筆文字が持つ、深い味わいと魅力に、現代に生きる書家の感性を融合させた筆文字が、現代の看板や商品パッケージには最もマッチするのかもしれません。